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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2012.11.08
 イラワジ河に浮かぶ小さな島
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イラワジ河に浮かぶ小さな島、……その島にあるテイワンの家を訪ねてから、もう7年が経ってしまった。
テイワンのボートで、夕暮れ時の河を渡った。エイミューという11才の島の少年が、テイワンと一緒に事もなげに帆を操っている。刻々と陽が落ちていくイラワジ河を背景に、いつからか水底から立ちあがるように途方もなく深い歌が聴こえてきた。あの風がうたわせた彼らの歌は今もぼくの中で消えない。きっとパガンの土地に生まれ、ずっとうたい継がれてきたのだろう。半ズボン姿のぼくは、ボートから両足を河に突っ込んで、その古い歌を静かに聴いていた。 舟を川岸の木杭につないでから、三人で白い牛の群れる草原を歩いて行くと、遠くに美しい草屋根の集落が見えはじめた。その美しさに思わずうれしくなって、少し歩いては立ち止まり、また歩いては立ち止まって集落の風景を見続けていた。
テイワンの家はその集落のほぼ中央で、訪ねると姉のエイワンと妹のサンサンワーがいた。彼女たちは、かすかにほほ笑みを浮かべながらぼくを受け入れてくれる。パガンの町に仕事で出かけた父親はまだ帰っていなかったが、4人家族だと言った。
テイワンに誘われるまま家の中を見せてもらった。家は高床式になっていて階下には牛がいる。階上には4人用の寝室、そして納戸と干し草の積まった物置があった。寝室の竹床の上には、さらに細い竹で編んだカーペットが敷いてある。狭いながらも夜具がきれいに片付けられ、木の衣装箱が4つ置いてあり、掃除も行き届いた気持ちのよい部屋だった。部屋の中央には細い柱が棟まで伸びている。この寝室から60センチ位下がった中二階に、台所と食堂兼居間が一体となった細長いファミリースペースがある。外からの進入はここからで、ぼくは高さ約 1.5メートルのはしごを登ってこの家に入った。台所には珍しい鉄器、小さな石うす、水瓶が3つ、秤、食器の陶磁器は壊れかけたものも使っている。炉の近くには薪が積まれていて、母親代わりのエイワンは鉄筒を使って火をおこしていた。食堂の壁には狩猟道具と大工道具が掛けてあり、竹床には豆の入った大きな袋が3つと米袋が置いてある。
竹を網代に編んである壁からは、かすかな光が漏れて、そこからわずかに微風を感じる。入口からは時折、鳥も入って来るので驚いてしまう。竹の床に座ってお茶と甘く煮た豆をごちそうになりながら、自然とともにある彼らのすみかを興味深く見回していると、姉のエイワンが手を上に動かしながら教えてくれた。
「この家の屋根はサッケーというのよ。私とサンサンワーが二人で編んだものだわ」
テイワンが軽くうなづく。
自分の家の草屋根は自分たちの手で編む、と水が流れるようにいったエイワンの言葉の中に、ぼくは人が住むこと、人が生きていくことの基本的な態度ともいうべきものをやさしく伝えられたと思った。そこには過不足のない等身大の生活の純真さ、簡素さ、手軽さ、そして日々天体の運行とともに生きる楽しさと静かな安心感があった。
2012.11.06
 瀬戸内海の島々
365●瀬戸内海の島々
この間、「シャングリラへの旅」の二回目の原稿が書きあがったばかりで、それはどこかというと、実は日本なんですね。日本にもシャングリラがあるんだという認識のもとでやってるから、グローバル・ドリームという副題があるけれども、日本から遠く離れた話ばかりではない。もちろんグローバルにやるつもりですが、日本にもあるよ、そうありたいと思っていたから、日本をやりたい。それで、どこを取り上げたかというと、君らにもこの講義で話したように、瀬戸内海の島なんです。瀬戸内海の島々というのは、シャングリラの島だということを書いた。

366●その行動の根源が何なのか
まあ、言葉を出来るだけ少なくするというのがいいかな、と考えている。瀬戸内海、そこでやったことは何かといったら、僕はこの島が好きだよとか、この島は気持ちがいいよとか、そういうことを絵に描いた。もうそれで十分、僕はこう描いた、こう見た、それで伝わっていけるような気がするんです。その他の野心はまったくないですね。
なんでこんな話になっちゃったのかなあ……、ああ、ムスタン王国の話からですね。長期間にわたってかなりの人員で詳細に取材してくるっていうことは、いいことかもしれない。でも、ちょっとアブナイことかも、という疑念がわいた。その根本的なところが何なのか、ということが見ていてちょっと不安だった。これは何に対しても言えることなのね、いろんな行動パターンがあるんだけど、その行動の根源が何なのか、単純に言っちゃうと、人間に対する優しさとか、思いやりとか、そういったものから出発しているのかなってことだと思うんですけれど。

註★ムスタン王国(Mustang kingdom)
ネパール領の自治王国。2008年まで存続した。ムスタンとはチベット語で「肥沃な平原」の意味。現在、ネパール連邦民主共和国ダウラギリ県ムスタン郡。


2012.11.01
 第四章-1
第四章 武蔵野美術大学近代文明論
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【リード】
1986年から母校で近代文明論という講座を担当した。受講生は毎年およそ60名前後だったかと思う。週一回、生活デザイン学科の学生たちに向って語りかけたものだが、他の学科や別の大学の学生も少々紛れこんでいた。
この講座は確か大学改組後の2000年度まで行われたように記憶している。(1993年から94年にかけて、一年間、在外研究と称して中国杭州を拠点に中国全土の民家探訪を実施していたので、その間は友人に講義代行をお願いした)
およそ15年間、この講座に関わったのだが、学生たちに語り続けることを通して、知らず知らず、僕もつくられていったように思える。つまり、語りかけるということは、自ら語ったことを自分自身が引き受けることだったのだ。

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2012.11.01
 古民家再生は新しい時代を担う
●興津の家
興津のK邸を最初に訪れたのは1999年のことだった。静岡市清水区の伊藤家住宅(登録有形文化財)改修工事のさなかだったかと思う。東海道筋に鬱蒼とした樹木が繁り、大正時代から連綿と続いている古い住宅があった。聞けば、佐藤春夫にゆかりのある家らしい。こんな質実で落ち着いた家があったのかと知ってうれしくなった。「これは貴重だ。当然、登録文化財 ! 」と言った記憶がある。
以来、その家のことはすっかり忘れていたが、小杉茂夫さんからある夜、突然電話があった。
「興津の家、直したんだ。明日、暇だったら見に来ない」
「えっ、あのKさんの家ですか」
「そうなんだよ」
今夜の電話で明日の話、そんなに暇でもなかったが、懐かしい声色に誘われたのか、やっぱり行って見たくなり、「ヒマヒマ、ヒマだから、午後の新幹線で行くからね」という応答になっていた。
翌日急遽、K邸を訪問した。そこには、古民家再生のいくつかの手法が展開されていた。端的に言えば、創る部分、残す部分、活用する部分が80年という時間の幅で混在している。「ここは残す」「ここは新築する」「ここは移築する」という具合に各棟各要所で多様な判断がとられている。その理念は新築部分にも随所にちりばめられていて、解体した材料を有効に再構成するということも試みられていた。
奥に潜んでいた唐破風の柱廊部分は玄関前に移設され、新築鉄骨部分のファサードになっていた。つまり、新築部分がひっそりと目立たないように消えていて、あたかも数寄屋普請の中にいざなわれていくような導入路になっている。
玄関に入ると、戦後に建てられたという主屋は鉄骨3階建ての現代和風住宅に様変わりし、「吟味された材料が使ってあった」という方丈の茶室は土台ごとクレーンで吊り家され、方形のむくり屋根を新設して海に面して佇んでいた。
長年の風雪に耐えた枝振りの松が屋敷地を覆い、植林も行き届いている。気になっていたK邸で最も古い遺構である大正時代の和館部分はほとんど手を加えず、注意深く改修されている。
この家がこのような形で再生されていったのには、まず、施主の古い家に対するロマンチシズムが根底にあったにちがいない、と思わずにはいられない。と同時に、その施主の意向に沿って、道に面して奥に細長い地所をめいっぱい活用しながら、綿密にかつ多様な展開を計った設計者の力量を感じないわけにもいかなかった。

●蒲原の家
石田正年さんとは山崎晏男さんを通じて、横寺の家(拙宅)で2001年の春に会ったのが最初だったと記憶している。その時に「蒲原で古い家を曳き家して……」というような話を聞いたことがある。
一度、ぜひその現場を見てみたいと思ったのだったが、あれやこれやの忙しさにかまけて忘れていた。
つい最近、「住宅建築」編集部から、その竣工写真を見せてもらうことになった。これは、この目で確かめたい、と思わせるものだった。秋の気配がちらほら漂う晩夏、山崎さんの運転で静岡駅から蒲原の片瀬邸に向かった。後ろには設計者の石田さんが乗っている。
「築80年の家を60センチ位ジャッキアップして曳き家しました」
「そうでしたよね。やはり間口は狭く奥行の長い家なんですか?」
「そうです。そこに3世代が住んでいます。施主は当初、建て替えを考えていたのですが、直した方がいいんじゃないかと提案して受け入れられたんです」
40分程で車は片瀬邸に着いた。二間半曳き家したという落ち着いたファサードを眺める。なるほど、いい佇まいである。しばらくして、隣地境の路地のような道を海に向かって歩いていく。庭から新築部分(離れ)の南面ファサードを見ていると、家の中からおばあさんがにこやかな挨拶を投げかけてくれる。
「この家は風がご馳走なんですよ」
「そうですか。それではその風を……」と言って、母家の土間から、お勝手を通り、中庭に出て、また離れの土間に入ってみたりする。確かに気持ちのよい海からの風が流れている。座敷の建具(夏障子)や網戸代わりの簾戸も涼やかだ。この家は施主家族と石田さんが約1年をかけて何度も練り上げたプランだったというが、実は結局、改修前のプランに近いものになったという。要するに昔の家のプランの良さをみんなで検証する作業だったのだろう。
片瀬邸は大別すれば曳き家後改修部分と解体後増築部分になるのだが、三和土風なモルタルの土間空間が新旧の建物を結んで違和感なく見事に馴染ませている。そして3世代が中庭を囲んでほどよい隔たりの中で日常の暮らしを営んでいるのである。
住みやすそうな家だな、人の集まりそうな家だな、というのが最初の実感だったが、この家が現代の快適な住宅か、と問われれば、実はそうではない部分が少なからずある。なにしろ家の中には街路のように長い道があり、段差もあるし、冷房設備もない。母家から便所はかなり遠い。内部とは言いがたい半外部空間が平面の約三分の一を占めている、という具合である。
そこには、むしろ現代の快適さという誘惑から少し距離をとって考えてみようではないかというような強い意志が介在しているようにも感じられた。文明社会の快適さは人間の生活の本質を置き去りにしたのかもしれない、というような疑念を明確に起こさせるいい住宅だった。

私は常々「まちと建築を再生する」ためには、身近な歴史的建物の再生は欠かせない要素だと思っている。これからの時代を担うべき存在だとひそかに確信している。
そして何より、人が家を大切に住み継いでゆくこと、それを実際の生活の中で心地よく実践していくことは人間本来の智恵を長く受け継ぐための尊い行為だとも考えている。
昨日新しかったことが、今日はもう古いとされる。先に走るモノを、はあはあと追いかける。成長が暴力的に強制され、狂気と化して走り続ける現代の中で、人が住むという源と先人たちの誠実で確かな技能をもう一度みんなで時間をかけて見つめ直し、新しい時代のほんとうの目的地を見いだすことは、まさにこれからの緊急な課題である。
2012.10.31
 壊されてゆく風景と散らかった部屋
近刊『シャングリラへの旅』執筆中!!!
あの頃と同じように、なぜか僕は極度のスランプで疲弊している。やれやれ。そして僕は気晴らしに近所のビア・バーに行く。あと一ヶ月格闘したら、きっと晴れやかな地平に出るだろうと思いつつ……、グラスの中のつかのまの静寂に溺れる。

本日締切

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ほぼ一ヶ月遅れで原稿を書き上げた『中国民家探訪事典』(東京堂出版)

壊されてゆく風景と散らかった部屋

●散らかった部屋(東京神楽坂)
散らかった僕の机と頭。進まない原稿。本棚からはみ出た関連書物の山。1999年の冬から春にかけて、なぜか僕は極度のスランプで疲弊し、現実の仕事に翻弄されながら、それでも中国各地の壊れゆく民家と対話していた。
日ごとに失われつつある中国の伝統的な民家。それを現時点で「記録」し、その生活風景を「記憶」しておくことはアジアに生きる人間にとって、いや地球に生きる人間にとって大切なことではないかと思えた。それは現代の文明社会において、人間が生きていく本質を維持し続けることと同義でもあるだろう。
ということで『中国民家探訪事典』(東京堂出版)の執筆中なのだが……、中国大陸はずしりと荷が重い。うっかり書けないぞ、と思い込んでいるのかもしれない。締切りがとうに過ぎているのにいっこうに進まない。
「鈴木さん、がんばってる? そろそろ原稿読ませてくれないと……」と各方面から電話が入る。
「いやあ、まいったな。あまり出来ていないんだ。緊急の仕事が入ったり、それに神楽坂建築塾も出発するし、と、と、とにかくがんばります」
やれやれ。そして僕は気晴らしに近所のビア・バーに行く。あと一ヶ月格闘したら、きっと晴れやかな地平に出るだろうと思いつつ……、グラスの中のつかのまの静寂に溺れる。

●壊されてゆく風景(川越六軒町)
この稿を進めようとしているのは1999年3月26日。東京には夜の雨がしとしとと降っている。雲南省昆明の壊されてゆく風景を書こうとして、現実のことが入り交じって離れない。中国のことも大切だが身近なことも放って置けない。
というのは、埼玉県川越のある商家が姿を消すことになり、いま実測調査から帰ってきたばかりなのである。明治15年(1882年)建立の建物はやはり圧倒的な存在感をもって迫ってくるのだが、どうすることもできない。近々の解体に先立ち、せめてもの記録をしている渦中である。
壊れてゆく建物、消滅してゆく風景に対して、いつも無力な自分がいる。その中には食い止めなければならない無謀な事情もあれば、どうしてもせき止められない深い状況もあるようだ。
「自分の生まれ育った家が壊れてゆくことをどう受けとめたらいいのか。どのような答えを出し、どのように終わらせたらいいものだろうか」という胸がしめつけられるような自問自答を抱えている人は国の内外を越えて随分いるのではないだろうか。
建物とそこに住む人間はほとんどの場合一体であり、建物の中で人は深く心を棲まわせている。

●マルチメディアとアナログ現場主義の合体(昆明)
時間を一年前に戻そう。1998年春の昆明である。
私は一★印式の民家を探そうとして武成路、光華街、青雲街あたりの古い通りをぶらぶらと歩いていた。最初に昆明を訪れたのが1991年、あれから街は凄まじい勢いで変貌している。しかも、うれしいことにと言ったらいいのか、寂しいことにと言うべきか、街角にはインターネットカフェ等もある。白状してしまうと、旅先の私はアトリエとこうしたところで連絡をとりながら、雲南省の情報に目を通していた。荷物を最小限に絞り込むため「衣料は現地で、資料はインターネットカフェで」というわけである。民家探訪者の心得として、これは邪道のような気もしたのだが、時代はおかまいなしに高速化している。マルチメディアとアナログ現場主義の合体はこれから避けて通ることのできないテーマだと思っている。
とはいえ不自由で時間のかかる旅が実は一番豊かである。それはその土地土地の日常の呼吸を深く心に刻むことができる、と同時に予測もつかないことに出会うからである。

●この家には35年も住んだんだ(昆明青雲街)
朱色に塗られた板壁、日乾煉瓦の上に白い漆喰を塗った壁。長屋形式の建物と建物の境には防火壁としての卯建うだつも上がっている。いつ頃建てられたものか、洋風のアーチやペディメントを持った家もある。数少なくなってしまったが一★印式の民家も見られる。古い建物で軒をつらねた青雲街。しかしどの建物の壁にも「★」という字が赤く書かれていた。
この「★」という字は取り壊しを意味している言葉である。つまり、この街並みは近々一掃されてしまうようなのである。塀や大門には房屋★★公告が貼られている。すでに人の気配がしないひっそりした寂しげな家も多い。
夕暮れ時、もう描くことのできなくなる風景を黙々とスケッチしていると男が話しかけてきた。聞けば、絵の中の建物に住んでいるという。李永★と名乗ったその男はまず「永遠消失」という字を書いて大きなため息をついた。何を喋っているのか正確にはわからないが、身振りと筆談をつなげて会話にしてみると、
「残念だよ。あの門をくぐって右側の耳房が俺の部屋だ。来週には取り壊されてしまう。俺は毎晩さよならを言ってるんだ。この通りは昔、人民服を着た男たちばかりだった。朝早くからマントウ売りや油条屋で賑わって、夜は夜で蝋燭を灯した荷車がたくさん往来していた。なあ画家先生、その絵を俺にくれないかい。だって俺はここに35年もずっと暮らして来たんだぜ」
彼もまた「自分の巣立ってきた家が壊れてゆくことをどう受けとめたらいいのか」困惑している人間だったにちがいない。

●弓を射る少年(石林五★村)
昆明の南東、乗り合いバスで二時間余り、カルスト風景で知られる石林風景区に着いた。石林はその名の通り、奇岩怪石が林立している高原である。じっと見ていると大地はやはり生き物なのだという実感が伝わってくる。ここは2億8千万年前まで海だった。海底に沈積した石灰岩が造山活動でせりあがり、徐々に溶蝕風化してできた奇観である。桂林の山水奇峰もまた同じように出現しているはずである。
その石林風景区の中にある五★村を歩き始めた。荒々しい茶色の版築壁に引き寄せられてまじまじと民家を見ていたら、突然、私はサニ族の少年に弓で射られた。もちろん本物の矢を放たれたわけではない。
「何しに来たんだ。戻れ」
直視する少年の目と手振りが鋭くそう語っていた。老人たちは少年の行為を頼もしげに見守っている。私は「うっ」と唸りつつ、即座に胸を押さえてその場に倒れる。演技をしながら、老人や少年の表情がやや緩むのを確認してほっとする。
近年かなり観光化されている石林である。いわゆる観光公害といわれるような混乱も生じているのではないだろうか。民家探訪者には異空間への冒険であっても、この地で暮らしている人には地道な日常がある。違う文化、違う民族、違う歴史の空間を旅する人間は他人の生活をのぞきみするある種のうしろめたさを抱えながら、いつも遠慮がちに入ってゆかなければならないのである。また、サニ族は彝族の一支族にあり、唐代に始まる過酷な奴隷社会に延々と耐えてきたという歴史を有している。旅とは単なる体の移動だけでなく、心の移動が含まれているのだ。
弓の洗礼を受けた後、サニ族の村人たちはみな友好的だった。何軒かの家を見せてもらった。どの民家の土間にも、煉瓦積みのカマドがあり、足踏みミシンや手桶、かわいい藁椅子等が置かれていた。ひんやりとした空気の中で、どこか日本の民家に通じる匂いも感じていた。
分厚い壁の基礎部分には地面から巨石が突き出ている。いかにも石林という風土の家らしい。人と住まいはむろん一体だが、加えて大地とも一体なのだということを改めて実感する。実感しながら、生えている石によって生じている土間の亀裂をじっと見ていた。

●長い回り道(タイ→ラオス→西双版納タイ族自治州)
雲南省最南端の西双版納シーサンパンナタイ族自治州には、タイからラオスを経て陸路で入った。
1998年12月、タイのチェンライ、チェンコーンと北上し、夕暮れの国境を小舟で渡った。久し振りに嗅いだラオスの空気に安堵する。
以後、フェーサイ、パバーン、ウドンサイ、ルアンナムタ、ムオンシンの町や村に立ち寄り、メコン河と星空、土ぼこりとバンブーハウス、そしてソムタム(青いパパイヤのスパイシーサラダ)とラオビール(Beerlao)の素朴な日々を過していた。
ようやく中国の国境の村モーハンに入って指折り数えてみると、ゆうに十日を越えていた。長い回り道をしながら、南詔王国や元に圧迫され、徐々にラオスやビルマに居住し生き延びてきたタイ族や少数民族の歴史を考えていた。
モーハンからモンランまで二時間余りバスに乗る。車窓から見える集落は、堂々とした入母屋の高床式住居ばかりである。わくわくして思わず飛び降りてしまいたくなるような風景が続く。ここがシーサンパンナか。小羽板のような磚の屋根が連続して美しい。ベランダ付きの高床で集う家族、いったい内部はどうなっているんだろう。

●カンランパの家(橄欖★)
景洪ジンホンのバス駅に行って出発間際の橄欖★カンランパ行きに飛び乗った。南下すること36キロメートル、約一時間二〇分。★★江を右に見て山道を行く。この川は下ってメコン河となり、ミャンマー、ラオスを流れる。橄欖★カンランパに着いて坂道を降りて行く。少し寒かったので酒造りをしている民家でトウモロコシのきつい白酎を飲ませてもらう。さらに道なりに降りて★★江に突きあたる。渡し舟に乗って対岸に行く。岸辺に待っていた三輪車に乗る。五分と経たないうちにタイ族の集落を見つけていきなりストップをかける。
京★村の昼下がり。タイ族の高床の家に招かれた。十段ほどの踏板を上がって居間の戸を開くとカマドと食器棚がある。最小限度の生活必需品がそろっているだけである。ガランとして暗い大きな部屋だが、奥には蚊帳の吊ってある寝室がある。壁面の板がやや外に向かって傾いているのが妙に落ち着く。
ああ気持良さそうな家だなと感じて、バンブーのカーペットに座りこむ。風通しがよく、壁板の隙間から透かして外が見える。くつろいでいると急に睡魔が襲ってきた。遠くで子供たちの声が絶えず聞えている。不思議な木箱にのって空にポカンと浮かんでいる夢を見た。
目が醒めたら食事の用意が出来ていた。
「ツーハンだよ、早くおいで」
この家の主は★波乱さん。67才。バナナの葉に盛った糯米もちごめと辛い青菜スープをすすめてくれる。多くを語らず、きりっとして頑なでやさしい。この家には入れ替わり立ち替わり子供たちや親族が出入りしているが、いったい何人で住んでいるのだろう。娘の★温乱さんにこの家のことを聞いてみた。
「この家は五年前、男四人と女二人でつくった。15000元もかかって波乱婆さんはたいへんだったよ」
私は寝ぼけまなこをこすりながら、とにかくスケッチブックに向かった。階下ではチャボや七面鳥が歩いている。黒い豚は掃除機のように地面に落ちている食料を探し歩いている。洗濯物が風に少し揺れている。
カンランパの★波乱さん。きっと名前のように波瀾に満ちた半生だったのだろう。

●散らかった本
僕はこのようにぼちぼちと原稿を書き進めている。散らかった部屋、散らかった本、1985年から始まった14年間の中国行きを反芻しながら、もうじたばたしない、自分の琴線で語ってしまおう、と思い始めている。
最後に、僕を応援してくれている中国関連の散らかった本の一部を紹介しておくことにする。

01・図説上海モダン年の150年(河出書房新社)/村松伸+増田彰久
モダン都市の150年。これを書いた村松伸さんは今度「図説北京」を書いているらしい。
02・どくろ杯(中公文庫)/金子光晴
最初に読んだのが1978年頃だった。次に読んだのが1989年8月。そして今また読んでいる。あてもなく逍遥する豊かさがつまっている。
03・中国民居(学林出版社)/陳従周・潘洪萱・路乗*傑
中国に行ってもほとんど本や資料を持ち帰らないのだが、なぜか旅の終りの上海で買ってしまった。  
04・中国民居の空間を探る(建築資料研究社)/茂木計一郎・稲次敏郎・片山和俊
安徽省、浙江省、江蘇省、福建省、広東省の民居が考察されている。『住宅建築』に3回にわたって掲載されたものを新たに編集したもの。
05・桃花源里人家(黄山書社)/余治* 
安徽省の★県で買った小冊子。タイトルに惹かれた。中身は解読できない。 
06・新・大地の家(建築資料研究社)/鈴木喜一
我が拙著。「この本以下のものは許さない」とこの本に言われている。
07・集落の教え(彰国社)/原広司
この本を読みながら、原さんと平良さんの対談(『住宅建築』1999年4月号)を読んだ。「遠くをとびとびに見つつ、身のまわりを見る」というくだりに反応した。
08・雲南の生活と技術(慶友社)/C・ダニエス+渡部武編
武蔵野美術大学美術資料図書館から借りてきた本。第一章の田村善次郎先生の「西双版納少数民族の村★を歩く」を読み始めている。
09・中国の水郷都市(鹿島出版会)/陣内秀信編
蘇州周辺の都市をこれだけ深く調査しているのか ! 、うーん。
10・建築の忘れがたみ(INAXギャラリー)/一木努他
壊される建物を見るたびに僕も忘れがたみのコレクションが増えてゆく。
11・海を渡った日本人建築家(彰国社)/西澤康彦
「この本をもって僕は東北地方を旅していたんですよ」と西澤さんに言ったら、ちょうど同じ日時に彼も大連にいたと言う。「ヤマトホテルで一杯やりたかったですね」
12・空海の風景(中公文庫)/司馬遼太郎
弘法大師を乗せた遣唐船は三千里という風浪を乗りこえてゆかねばならず、困難を極めた航海だったらしい。
13・モンゴル大草原遊牧誌(朝日新聞社)/張承志
日常を軽々と移動して生きる民族の寡欲さに憧れてしまう。
14・北京都市空間を読む(鹿島出版会)/陣内秀信+朱自★+高村雅彦編
この本で実測調査をしている西四北三条11号の四合院に行ったら、「突然の見学はダメだ」と門番にあっけなく断わられてしまった。四合院の守りは固い。
15・生きている地下住居(彰国社)/★洞考察団
地下住居を空撮するため、凧にカメラをつけて撮影したという話を秋山実さんから聞いた。「レンズから見た★洞」の項を中心に再読中。
16・トンパ文字(マール社)/王超鷹
王超鷹さんには中国美術学院在籍にあたってたいへんお世話になった。王さんの自筆のサインがトンパ文字で書かれている貴重本。謝々。
17・中国の風土と民居(里文出版)/北原安門
東京堂編集部の小林さんが「鈴木さん、この本にも目を通しておいて」と言って持ってきてくれた。風土との関わりに重点をおいて垣間見る中国の民家。
18・『住宅建築』1990年4月号(建築資料研究社)/中国・貴州の高床住居と集落
この号を読んでからミャオ族やトン族の村にどうしても行きたくなってしまった。
19・蔵造りの町並(川越市文化財保護協会)/川越市伝統的建造物群に関する調査報告書
この世にあるものはすべて過ぎゆく。永遠なるものは「人間の記憶」であり、そのためのささやかな「記録」なのだ。
20・アジアの民家(相模書房)/川島宙次
「中国南西部の民家」の章をコピーし、リュックに入れて旅をしました。イラストにある民家がまだ現実に存在しているのを確認した時はうれしかった。
2012.10.23
 本日の読書
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2012.10.22
 秋山書店編集会議☆20121022
14時30分〜
●序
●25000
●25000
●20000
●30000☆武蔵野美術大学近代文明論講義
●後書
資料編(全111旅リスト・場所・地図・初出一覧)

写真50ー100枚

原稿締め切り/10月31日。約10万字。秋山書店にデータで渡す。
写真挿入の目安を頭に入れながら原稿をまとめる。。。大・中・小
リード・序・後書を除く。
写真2/3
イラスト1/3

11月11日に第一稿提出
11月15日(木)14時〜 編集会議