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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2009.11.13
 建築の保存や再生はこれからの時代を担う☆interview●04
日常の仕事のお話を聞かせてください。保存や再生はこれからの時代を担う、ということを説かれていますが......。
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日常の仕事は住宅設計がほとんど。木造住宅が90%であることと、保存、再生、改修といった仕事内容が半分以上ですね、あと半分弱が新築。
江戸時代から明治、大正期の歴史的な建物を扱うことが多く、素材として古いものを活用したり、文化財として補修して残していくという仕事をしています。最近は母校の武蔵野美術大学の一番古い木造校舎の改修もしました。一時期、建築家は開発する側で、残すのは歴史家がすることだという認識と潮流があったんですが、今後は残すことが新しい建築のジャンルになってくるでしょうね。
保存や再生の仕事は自分が穏やかになるんです。やり終えた時、「いい仕事をしたな」という感慨を持つことがほとんど。経済活動だけが目的のあざといビルなんかを見ると「こんなんでいいんだろうか……」と怒りが込み上げてくる。やはり僕は壊れそうな民家をきっちり直す方が精神的にいいんです。朽ちてしまいそうに見えるボロ屋でも、今まで扱ったものの中で、直せないものはなかったですね。みんな壊す方が簡単だから壊しちゃうんだけれど……。
僕がこのように形成されてきたのは、このアトリエとも関係があるんです。戦後すぐの昭和22年、焼け野原になった神楽坂に、義父である高橋博がこの建築事務所を建てたんです。それがこの建物。ヨーロッパのコテージと日本の民家が入り交じっている。
今、住んでいる横寺の自宅もそうです。96年に改修しましたが、僕は家を直すとき、父に対する敬意があったから、どこを直したかわからないようにしました。本当は結構いじっているんですが、わからないようになじませた。このことは、改修にかかわる建築家が頭に入れておいた方がいいことでしょうね。少なくとも昔の仕事に対してのオマージュを忘れずに現代の仕事をする。昔の職人の創意工夫をちゃんと見るべきです。


2009.11.12
 僕の胎内には膨大な旅の経験が澱のように沈んでいる☆interview●03
鈴木さんの中で旅と建築は切っても切れない。そして、現場で描くスケッチはその場所をつなぐ大切なメディアということですね。
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そういうことになるのかな。旅は今でもよく出かけます。年に三回か四回、多い年は五回か六回、合計すると大体、年100日前後。まる一年間、日本にいなかったこともある。10年に一回ぐらいそういうことをしてもいいなと思っているんです。30代の初めはパリでしょう。そして40代の初めには中国に行った。杭州の中国美術学院の研究員として一年間在籍しました。籍は置いていたけどやっぱり学校にはいなかった。中国はむろんアジア全域をほっつき歩いていました。東京堂出版から出した『中国民家探訪事典』はその時の結果的な本ですね。いつもそうなんですが、取材があってそれから旅が始まるというのではないんです。まず動く、かなり衝動的にね。そうでないと僕の場合、成果になりにくいですね。
自慢じゃないですが、正月も16年連続して日本にいないんですよ。ここまで連続して日本にいないと、いる方がおかしい(笑)。正月前後は建築の現場もあまり動かないしね、その休暇を前後にぎゅーっと引き裂いて1か月ほど旅の時間をつくる。正月でなくてもね、旅の時間をつくることにかけては達人です(笑)。
旅に出て得難い体験をしないとね、世界の中で迷っていないと、僕自身が僕自身でなくなる。旅しない鈴木喜一なんて、何の役にも立たないでしょ(笑)。昔ね、ブルーノ・ゼヴィの『空間としての建築』という本を読んで、その冒頭に「どんな辺境であっても、各地を遍歴する労をいとわない人だけに建築展の門戸が開かれている」と書いてあった。要するに、建築は美術館や書物の中で体験することができない。建築が立地しているその場所を訪ね、そこで直に触れることが大切だと。その一文を発見して、旅と建築は切っても切れない関係にあるんだと思いました。
うちの工房の若い人や大学で学生諸君にも、旅に行っていろんなものを見て聞いて考えてきたらいいよ、と常々言っています。知ったつもりでいることと、行ってみてわかることはちがいますからね。彼らも元気に世界を歩いてきて見応えのあるスケッチやフィールドノートを見せてくれる。その報告を受けるのも刺激的でうれしい。
僕の場合、旅先では、その土地に根づいた民家や暮らしぶりに目が行くから、できるだけ奥へ奥へと入って行くことになる。遊んでいるようで、結構、真面目に踏み込んでいることになるのかな。こうして自ら率先して外に出ていろんなものを見ることは、僕のライフワークだと思う。旅を始めて20年、僕の胎内には膨大な旅の経験が澱のように沈んでいる。
最近はアジアや東ヨーロッパに行くことが多いですね。どちらかというと土埃りの立つところ。言葉がわからなくても、現地ではまったく問題ないですね。絵を描いている人間に対してはみんな好意的。僕にとって絵は本当に有効なプライベートメディアなんです。言葉以上の力を発揮する。絵を描いていることで、家に招待してもらったり、ご馳走してもらったりすることもよくある。でも、人が寄ってきて囲まれて大変。描こうとする風景が見えなくなっちゃうから(笑)。

interview●02

2009.11.12
 それも徐々に、徐々に。☆interview●02
パリを拠点にユーラシア大陸・北アフリカを歩いたそのリスキーな旅の感覚が今につながっているんですね。
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助手を卒業してから、パリの国際芸術都市(Cite Internationale des Arts)のアトリエを拠点にして一年余り留学しました。毎年うちの大学から一人だけ行けたんです。とても恵まれていました。でもパリで学校に通っていたわけではないので留学というより遊学ですね。まずヨーロッパ全土の建築を見て回る旅を始めた。中近東や北アフリカにも足をのばしました。明日をも知れずという感じで放浪していましたから、何が起こるかわからない。相当リスキーな旅でしたね。今、僕が地球をくまなく歩いているのは、その時の旅の感覚が大きく影響している。ああいう時間は誰にとっても必要なものじゃないかな。ずっと仕事だけをやっていると、どうしても狭い世界に入っちゃうからね。
最初はアカデミックにね、ヨーロッパの古今東西の建築を訪ねる旅をやっていたんですけど、次第に、そういう建築史や建築論のカテゴリーからちょっと離れた、つまりそこからはみ出したところにあるごく普通の民家や、ヴァナキュラーな集落がいいなと思うようになった。建築家が存在しないアノニマスな建物、建築家が謙虚に消えているような建物が好きになりました。
ちょうどその頃、水彩でスケッチするのが心地よいという感じにもなってきた。旅を始めたころは建築家志望なんだからスケッチぐらいしなくちゃまずいな、なんて思って描いていたんです。それがある日突然、絵を描く快感に目覚めたんですね。描いているときは、時間がサーッと流れて無の状態になる。何も考えていないですよ。鼻歌なんかうたっているかもしれない。でも描き終えた後に、その風景と強い絆が生まれてくる。それも徐々に、徐々に。だから一日中、歩き回ってなにも描けなかった日はさびしかったですね。それは今も変わりません。

人間の原風景を訪ねる☆interview●01

2009.11.12
 人間の原風景を訪ねる☆interview●01
text by yukimi hara
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「旅しない鈴木喜一なんて何の役にも立たない」
鈴木さんは、自分のことを笑いながらそう話す。世界各地を旅して、建物に、人とその暮らしにずっと触れてきた。生活の匂いがする民家や集落をじっくり見つめ、そこから学び、そして謙虚に家をつくる。古いものを愛し、朽ちて消えてしまいそうな建物に再び命を吹き込む。心の奥に強い意思を秘め、自然のままに、思いのままに生きる、その軽やかで真摯な人生の旅をのぞいてみよう。


父親が金属屋根を葺く職人だったんです。内弟子を抱えた親方で、小さな会社をやっていて、僕は長男で跡継ぎ。小学生のときから屋根に登って手伝いをしていたんですよ。
進学するときは工業高校の機械科か建築科でなければダメだと言われ、建築科に入りました。高校では成績も良く、図面も描けて、先生も「喜一君は設計に向いている」なんて言ってくれたから、父は職人にするより可能性があると考えてくれたみたい。卒業後は跡を継がないで地元静岡の建築事務所に入ることを許されました。一言「職人をいじめるような建築家にはなるな!」と言われました。
事務所では、周りがみんな朝から晩まで仕事をするものだから、よく遅くまで図面を描いていた。でも、苦にはならなかった。ただ、若いから遊びたいですよね。それで夕方6時になると事務所を抜けて遊びに出かけ、夜9時に戻ってまた仕事をしました。当時、僕は演劇をやっていて、夜に稽古があったんですよ。
そのころ主に設計していたのは娯楽施設。総勢70人ぐらいの大きな建築事務所なので、いくつかの部署に分かれていたんです。僕のところはボーリング場ばっかり設計していました。だから、ボーリングは今でも上手い(笑)。竣工前に試し投げをしてレーンの滑り具合とかチェックしていたからね。レストランや住宅の設計も何軒かやりました。
こうしてたまたま建築の道に入り、図面を描くことも人並みにできるようになったのですが、かといって建築家になれるほどの力量と才能があるとも思えなかった。自分の能力の限界というのがわかってきて「このままじゃ、ちょっとまずいな」と考えるようになりました。22~23歳の頃ですね。それで父に「そろそろ家業を継ごうか」って言ったんです。当時、父の仕事は活気があったし、実際に手を動かしてものをつくる方がおもしろそうだと思ったことも事実なんです。でも父は「ダメだ!」「建築家になると決めたんだから、やり通せ!」と。で、すぐ引き下がっちゃった(笑)。でも、今から思うと本心は継いで欲しかったんだろうな……。
まあ、それからあれこれ考えて、武蔵野美術大学の通信教育を受けることにしたんです。専攻はデザイン。建築はそこそこわかっていたし、もう学校で勉強するほどでもないからデザインをやろうと。「この先生の授業だけは聴講してみたい」という方針も明確に持っていました。通信教育部を卒業してから通学部の方に編入して、勤めていた建築事務所を休職しました。でも、結局戻らないでなし崩し的にやめちゃった(笑)。だけどその事務所とは今でもとても仲がいいんです。
学生を終えて、大学の教務補助と助手を5年間、30歳までやりました。研究活動の他に住宅設計のアルバイトをしたり、研究室に委託された仕事をしていましたね。