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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2012.11.09
 一本の樹(或いは、一番悲しかった話。)
ボローニャ/イタリア
tonari33.jpg

……長い間、旅を続けていて一番悲しかった話。
大分、昔の出来事だが……、ぼくのスケッチのファイルには、残念ながらヨーロッパのある時期のものがすっぽり抜けていている。ヨーロッパ全域を一年以上くまなく歩いていた頃のことである。
振り返るのもくやしいのだが、イタリアの夜汽車で愛用のショルダーバッグを盗まれてしまった。そのバッグの中に入っていたものは、カメラ、ストロボ、アーミーナイフ、電卓、偽造学生証、電池、切手、水彩絵具、それに……スケッチブック。
あの時、夜汽車はもう目的地ボローニャの近くだった。朝が来ようとしていた。プロの仕業だったと思う。不覚の睡眠は、手元のバッグを帰らないものにしてしまった。非情にも列車はボローニャに停車する。だれかがどこかで、ぼくが降りるのを見て薄ら笑いをしていたはずである。
プラットフォームに立ちつくしたぼくは、南下していく汽車の窓のひとつひとつを睨みつけていた。
「出てこい、畜生め。スケッチブックだけは、返せっていうんだ」
ぼくの内部で涙がいつまでも流れていた。
これは1981年7月7日未明のこと。描いた風景たちは今でもしっかり覚えている。
●セーヌ河畔で描いたノートルダム寺院の背景
●デンマークの田園風景
●ケルンの駅
●ストックホルムのユースホステルの窓から描いた新緑の木々
●アスプルンドの森の火葬場
●エストベリーのストックホルム市庁舎
●ストックホルムからボーデンの間にある小さな町の倉庫
●ハルスタッドの冷気の中で描いた海の夕暮れ
●バーゼルを流れるライン河の夕焼け
●ウィーンの街角
●ベネチアの夕焼け
●ツルクの海上風景
●ストックホルム人物像
これらのスケッチは、もうぼくのもとに帰ることはない。その後、しばらく立ち直れなかったぼくはようやく3日後の7月10日、町の小さな画材屋で絵具とスケッチブックを買い求め、一本の風に揺れる樹を描いている。
旅は、そう順調にはいかないものなのである。
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