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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2012.04.19
 神楽坂岡本丸☆隅田川の支流にも入りたい
2012041992.jpg
岡本哲志さんと打ち合わせをする夜。

隅田川クルーズコース研究☆岡本哲志・岸成行・鈴木喜一
・支流(内部河川)にも入りたい。
・デッキの上で停めて、岡本さんの話を聞く。
・そこで、スケッチをする。写真を撮る。


建築塾・写真塾=正規講座
美術塾=番外講座
一般枠=5名
総計60人の屋形船

なぜ、残っているのか? という意味を考えてみよう。
なぜ、変わってしまったのか? という意味を考えてみよう。

☆7.21
岡本哲志☆コンドルの話
01・お上に雇われた時代(工部大学校造家学科)
02・都市計画(東京丸の内)
03・邸宅建築及び庭園の話(岩崎邸・古河邸他)

ジョサイア・コンドル
(Josiah Conder、1852-1920年) はロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創生期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。河鍋暁斎に師事して日本画を学び、趣味に生きた人でもあった。

『明治の西洋館』

●東北の旅/西洋館との対話/弘前の大工棟梁堀江佐吉を訪ねて

西洋館への旅を始める前に、どうしても立ち寄っておきたいところがあった。文京区にある護国寺の墓地である。ここに日本の明治建築の大恩人ジョサイア・コンドルが眠っている。
コンドルの墓碑は、いかにも彼の人柄をしのばせる素朴ながっしりとした自然石でできている。やや赤みをおびて白いたっぷりした台座石の上に立つ茶褐色の墓石には長方形の彫り込みがあり碑文が記されている。
英国王立建築家協会正会員(F.R.I.B.A)ジョサイア・コンドルは、1852年9月28日に生まれ、1920年6月21日(大正9年)に永眠している。そのわずか11日前、くめ夫人が急逝していることがわかる。さらに碑文を追うと、生存年代に続き、美しい短文が刻まれている。
LIFE´S WORK WELL DONE
LOVING AND TRUE
良く成し遂げられた一生という作品、愛をこめて、ほんとうに、と訳したらいいのだろうか。最後に、ERECTED BY THEIR DAUGHTER とある。
ジョサイア・コンドル(JOSIAH CONDER)の、良く成し遂げられた一生、に触れながら、大騒ぎの中からはじまった明治という時代と西洋館建築についてしばらく考えてみよう。
1886年(明治9年)秋、故国イギリスを出発したコンドルは、約1ケ月のイタリアスケッチ旅行を経由して1877年(明治10年)1月に来日した。この時、若干24歳の少壮建築家であった。日本政府の招聘に応じたもので、とりあえず、5年間の雇用契約である。彼の任務は、工部大学校造家学科の建築教育、つまり、本格的な日本人建築家の養成であり、同時に、工部省営繕局顧問として実際の西洋建築の設計活動に従事することであった。
コンドルを待ちかまえていたのは、後に明治建築界を背負って立つ辰野金吾、片山東熊、曽ネ達蔵、佐立七次郎らであった。コンドルは、若々しい情熱で、ほぼ同年令の彼らを全教科にわたって懇切に指導し、政府の期待通り、日本の近代建築家の第一世代をきっちり育てあげていく。
コンドルの来日以前の経歴をたどってみると、24歳の青年建築家といえども、相当な建築の実力が備わっていたことがわかる。また、十分に美術的な教養を身につけていたこともわかる。そして、日本人女性を妻とし、日本のあらゆる芸術に興味をしめし、日本に骨を埋めたその後の人生の経緯もかすかに読みとれる。
1852年、銀行家の次男としてロンドンに生まれたコンドルは、ベッドフォード商業学校を卒業すると、叔父でロンドン大学教授のT・ロジャー・スミスの事務所に入り、約4年間、実際の設計や工事監理を習得するかたわら、サウスケンシントン美術学校とロンドン大学で建築を学んでいる。その後、ヴィクトリアン・ゴシックの高名な建築家ウィリアム・バージェスに師事して実務に携わり、ここでもロンドン大学のスレイド・アート・スクールに通っている。
時はちょうど世紀末、英国建築界や美術界はゴシック・リヴァイバル(中世ゴシック建築復興運動)や異国趣味の中に突破口を見いだそうとしていた。コンドルの入ったバージェスの事務所でも、中国や日本美術にたいへんな関心をよせていたらしい。コンドルは、最も多感な時期に折衷主義建築と東洋事情の関心の渦の中に身をおいていたことになる。おそらく、コンドルの人生のオリエンテーションがここで決められたのだろう。
そんな折、1873年ウィーン万国博において、明治政府として初参加の日本館に人気が集中する。手前にかんなを引きながら見事に木を削り、手際よく精緻に組み立てていく日本の大工たち、着ているハッピも西洋人には新鮮であった。半年の万博会期を終えると、神社、家屋、庭園などの日本館一式は解体されて、翌1874年、コンドルの通っていた美術学校の近く、サウスケンシントンに移築されたのである。この移築を担当した大工は、越後出身で後に宮城県で活躍することになる山添喜三郎らであった。コンドルが、極東の日本をめざして故国をたつ2年前のできごとである。おそらくコンドルもこの移築現場を興味深く見つめていただろう。
さらにコンドルは、1876年の日本政府との調印前に、イギリスで最も権威のある王立建築家協会主催の設計競技で最優秀となりソーン賞を受賞している。まだ自身の作品を実現していなかったコンドルだが、この受賞によって、輝かしい将来が約束されたわけである。そのコンドルが故国での将来を捨てて、日本政府の誘いに乗ってやってきたのである。
ソーン賞の受賞者には、イタリア旅行の費用が与えられ、スケッチの提出と展覧が義務づけられていたという。古くから、建築家と旅は切っても切れないものであるといわれるが、このソーン賞の賞金の与え方をみると、英国建築界のヨーロッパ大陸の歴史への関心がよく現れているし、建築家の基礎を、各地を遍歴する労をいとわずに、スケッチによって建築との対話を重ねること、としていることがよくわかる。
日本を含めた東洋に止みがたい関心をしめしていたコンドルは、ソーン賞受賞者のイタリアスケッチ旅行はむろんのこと、はるかに遠い東方、憧れの日本への旅を通して、しかも重大な実務の使命をもつこの旅の中で、これまでの経歴と実力を試し、見聞を広め、自身の完成をめざそうとしたのである。国境を超えて地球上の一人の建築家として、さらに人間として、コンドルは、情熱的に誠実に生きることのできたスケールのあるコスモポリタンであったにちがいない。
明治21年、コンドルは教え子たちが第一線の近代建築家として育ったのを機に、教育活動から完全に身を引き、官庁の仕事からも遠ざかり、以来、民間の仕事を中心にした設計活動を開始する。肩の荷をおろしたコンドルは、邸宅やクラブ建築の中に、柔軟な折衷感覚を表現し、彼本来の自由な美意識を投入していく。一方、建築だけでなく、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、生け花、日本庭園、衣装などを研究するといった具合で、明治という開発の時代、気構えのしっかりとした時代の表層を着実に先導しながら、さりげなく引き下がり、憧れの異郷に自己充実の根を張っていく。
コンドルが、24歳で来日し67歳で永眠するまでの43年間に手掛けた作品は計画案を含めて100棟近く、実現したのは約70棟であった。そのうち、邸宅建築が半数以上を占めている。現存する建築は、神田のニコライ堂、品川の島津邸、本郷の岩崎邸、品川の岩崎別邸(開東閣)、北区の古河邸、三重県桑名市の諸戸邸などがある。惜しいことに現存していないが、築地訓盲院(明治12年)、開拓史物産売捌所(明治13年)、東京帝室博物館(明治15年)、鹿鳴館(明治16年)、三菱一号館(明治27年)などの作品がコンドルの代表的な作品といえるだろう。
私はコンドルの墓をスケッチしながら、さまざまに咲き乱れた明治の西洋館建築の一つの中心を漠然と感じていた。と同時に、その大きな中心を囲みながら、彩り、脈々と息づいている西洋館のこと、コンドルの薫陶を受けることのできなかった民間の棟梁、特に地方の棟梁のつくった西洋館のこともイメージしていた。(1991年冬)
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