
サブタン島、スンナンガの路上(2011.12.29)
「モモを読む」/(子安美知子・学陽書房)
武蔵美近代文明論☆10●自然からの離脱
「自然から」の脱出。自然からの離脱。これが日本の近代合理主義の元と言ったらいいのかな。インドのカルカッタとか、バラナシあたりで見たのは、カオスのような状態になって渦巻いている迫力、ある種のエネルギーだったんだけれど、ネパールはそうじゃない。ヒマラヤの麓の、厳しいんだろうけれど穏やかな場所で、豊かな、のんびりできる、はるかな感じもする人間の生活の原風景というようなものだった。
本当の豊かさとは何なんだろうと考えたとき、日本が《脱出》のためにかけた膨大なエネルギー、そのことによって消えていったもの、と捉えるとその答えがくっきり浮かびあがってくる。
今から見てもらう写真でそれが伝えられるかどうか分からないけれど、そこには、過去があったり、家族があったり、不自由な設備機能があったり、その土地に根づいたバナキュラーな家があったり、手仕事が生きていたり、日常性が生きていたり、自然があったり、ということだった。
最後にもうひとつだけ、今日は最初にミヒャエル・エンデの話をしましたから、エンディングもエンデの話。(笑)
エンデのメッセージを、子安美知子さんが訳してるんですが、おもしろい話がある。
ある学者が、インディアンの村に出かけていった。そのインディアンの村には、泉がひとつだけしかなかった。村の人たちは毎日30分間坂道を降りて、その水源に行く。帰りは重たい水を肩に担いで1時間かけてその坂道を登る。
そういう風景はインドに行ったりネパールに行ったりすれば日常的な風景だし、僕が旅をしているところはわりと当たり前っていうのかな、君らは水道の蛇口を捻れば水が出てくるからそれが当たり前だと思うかもしれないけれど、井戸から水を汲んだりして動いている現実の世界があるってこと。それで、その文明人の学者が、その水を汲んでる女の人に「一時間も水を担いで村に帰るのはたいへんだから、いっそ村ごとその水の近くに引っ越した方が賢明じゃないだろうか」ということを提案した。そうしたら、そのインディアンの女の人の答えは、
「賢明かもしれませんね。でも、そうしたら私達は快適さ、という誘惑に負けることになると思います」
と言った。快適なことはいいことじゃないかって普通思うよね。我々が手にしたもの、この20世紀で手にした物っていうのはものすごく多い。日本の中でも、昭和40年代の高度成長の中で、文明化社会の中で得たものというのは、例えば、洗濯機とかね、さっき言った自動車とか、エレベーター、飛行機、電話、ファックス、ベルトコンベアー、ロボット、コンピュータ。そういった物は全て快適な生活の為にあるはずだった。それがなぜ誘惑なのか、という答えなんだけれども、じゃあ、それらは本当に人間の快適さの為に時間を、くれたか、ということを考えなくちゃいけない。我々は何から解放されたのか。ひょっとしたら、人間が生きていく生活という本質的なことから解放されちゃったんじゃないか。人間の本質を、その快適さが奪っていってしまう。そうするとね、生きてることにならなくなっちゃったっていうパラドックスが成り立ってしまう。ということをエンデは言っている。
武蔵野美術大学近代文明論
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