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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2011.09.27
 《旅とスケッチ-時代遅れのコミュニケーション》
――旅先でのスケッチにはどんな意味があるんだろう?
●あまり意味をもたせていないんだ。ただ、人の住んでいる美しい風景に触れたり、出会いがあってストーリーが立ち上がってきた場所というのは、どうしても描きたくなってしまう。どこでもいい。気にいった場所で一日一枚のスケッチをする。これはぼくの楽しい遊び。
気にいった場所で描くのだから、ただ入っていくだけなんだ。色も形も空気も匂いもすべてひっくるめて近づいていくという姿勢。飛んでいる鳥を画面のどこに入れようかな、なんていうことも楽しい。
――100パーセント現場で仕上げるの?
●そうだね。未完の場合もあるけど、後で手を加えることはない。だから記録という意味あいが結果的に生じているね。でも一度だけ、宿に戻ってから印象を思い出しながら描いたことがあった。あれは色のイメージを追っていた。
――描いていると人だかりになるのでは?
●そうなんだよ。でも描いている時は自分の気持ちを開放しているから気分がすごくいいんだな。だから、そういう状況になっても余裕がある。描いている対象の視界が人で塞がってしまったら、目と手でやさしく訴える。そうすると水が引くようにギャラリーはぼくの後ろ側に回ってくれる。あとは一生懸命描くだけ。君らの町をがんばって描くからなって思いながら筆を走らせる。そうすると汚れた水は替えてきてくれるし、イスは持ってきてくれる。チャイやお菓子を持ってきて一息入れろよみたいな話になる。こうなるともう全員で描いているという一体感が生まれてくる。
――そこからその土地の人とのコミュニケーションが始まるわけ?
●そう。スケッチが終わったらもう友達だよ。ストーリーが先にあって描きたくなるときもあるけど、描き終わってストーリーが動き出すことの方が多い。家庭訪問をしたり、食事をご馳走になったり、泊めてもらうこともある。みんなとびきり親切なんだよね。
――スケッチはあなたのプライベートメディア?
●そうだね。ぼくは言葉がほとんどダメだから、スケッチを媒体にギクシャクとコミュニケーションしている。これだけ世の中に情報が流れ、氾濫し、通信システムがスピード化されてくると、かえって伝わりにくいこともでてくるじゃない。だけど、現地で絵を描くことによって生まれたつながり、そこから片言の言葉と表情でしっかりと伝わっていくコミュニケーションというのがあるんだよね。時代遅れかもしれないけれど、身体で伝えていくということ、目と目をあわせて人が人に伝えていくという原初的な回路をできるだけ大切にしていきたいと思っている。
――彼らの生き生きした顔を表現すると?
●健やかでほがらかな顔。縁側にほした座布団のような感じ。怒られるかな。おいしい太陽をいっぱい吸ってフカフカで、ポンポンとたたくと、ちょっとほこりっぽくて、とても懐かしい匂いがする。
――あなたをどのように思っているんだろう?
●その質問で思い出すのが東晋時代の自然詩人陶淵明(365~427)。彼は『桃花源記』の中で田園のユートピア的物語を描出しているんだけど、主人公の漁師が、偶然に迷い込んだ人里離れた桃源郷で大歓迎を受ける。しばらくこの地に逗留した漁師は自分の見聞きした現実世界を詳しく語り、村人たちはその話にみな驚いてため息をつく。時が流れて漁師が暇を告げると、村人たちは彼に言うんだよ。「この村のことは外界の人に話すほどのことではありませんよ」と。ぼくは美しい風景を美しいよ、とシャングリラの中で言っている。そして彼らとの交流を伝えている。でも一方でいつもこの話を思い出してしまうんだ。ほんとうはそっとしておくべきではないかとも……。
――たしか瀬戸内海のストーリー(シャングリラへの旅2)では島の名前が伏せられていたね?
●そうそう。シャングリラはそっとしておきたい。大切にかかわりたいという思いがあったから。
――あの話は印象的だったね。島の子供たちが送ってくれたという貝殻はどうしたの?
●額に入れて飾ってあるよ。
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