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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2011.07.05
 足尾を歩く3☆通洞☆20110704
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わたらせ渓谷鐵道。通洞駅舎。大正元年創建、昭和11年改修。国登録有形文化財  

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渡良瀬川沿いの煉瓦造の廃墟

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足尾町赤沢をくまなく歩く

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山の地下水を貯めて生活用水にしているようだ

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最近、ついつい薪棚を見ると反応して写真を撮ってします。武蔵高萩の家の薪棚が気になっているのだろう。

神楽坂建築塾2011年夏合宿●岸 成行
「足尾、桐生の町を訪ねる」       

今年10月の神楽坂建築塾夏合宿では栃木県の足尾と群馬県の桐生の町を訪ねます。この二つの町は栃木県と群馬県という異なる県に位置しますが、いずれも渡良瀬川流域にあり、地理的にも歴史的にも川を介してつながっている「渡良瀬川文化圏」にあると言えます。
上流に位置する足尾の町は、かつて明治から大正時代にかけて足尾銅山の繁栄とともに栄えた町ですが、一方では、その鉱毒から渡良瀬川の汚染という大きな社会問題を起こしました。銅山は1973年に閉山し、1989年には製錬所も操業を停止しました。戦前は4万人をかぞえた人口も過疎化が急速に進み、現在は2千名を超える程度です。鉱害問題の原点とも言われる負の歴史は事実ではありますが、また一方では、数多くの日本で最初の技術が足尾の地で誕生し、戦前の我が国の技術革新に貢献した歴史もあります。このように足尾は影と光の両面を合わせ持った町とも言えます。現在は足尾周辺の山々の緑と豊かな台地を回復すべく、大規模な植林緑化事業が進んでいます。このように足尾の町は近代から現代にかけて、そして将来に向けての環境問題が集約された地域であります。
また、桐生の町は渡良瀬川を下った群馬県の台地にあります。明治から戦前にかけては絹織物で栄え、日本の繁栄を支えました。しかし、戦後は地場産業である繊維業の衰退とともに、人口の流出も進み、かつての町の活気は失われました。しかし、町の風景を形づくったノコギリ屋根やレンガ造、大谷石の建築は残っています。それらの建物を保存し、再利用するなど、新たなまちづくりに取り組んでいます。
足尾では足尾歴史館の小野崎敏氏から「足尾の歴史と将来に向けて」の話をお聞きします。そして、足尾歴史館、古河掛水倶楽部他を見学し、足尾の町を散策します。桐生では町おこしに取り組む、無鄰館(ノコギリ屋根の旧絹織物工場を芸術家の拠点として再生する)の建築家北川紘一郎氏をゲストに「住み継ぐ町」をテーマとしたミニシンポジウムも開催します。また、桐生の町を歩きながら、戦前から残る建築や町並み、保存活用の事例を見学します。見どころ、聴きどころ満載の充実した合宿にしたいと考えます。
今年の神楽坂建築塾の年間テーマは「住み継ぐ家」ですが、これをもう少し大きく捉えて、「住み継ぐ町」として考えてみたいと思います。上記の二つの町には、わずか100年の間にさまざまな文化や暮らし、栄華と衰退の詰まった歴史があります。その歴史をひも解くことは、現在の私たちが抱える環境問題や社会問題を再考する手がかりになると考えます。
皆さんとともに、その町に住み続けることの意味を考えてみたいと思います。

2011年7月5日
コメント
この記事へのコメント
サイトを拝見させていただきました。私は2006年の10月に長男の然(ぜん)を出産しました。お会いしたことのない人なのに、なにか大きな渦のどこかでご一緒したような気分です。
悠利という名前は中学の時に亡くなった祖父にもらいました。祖父は薄明の絵描きでした。赤青黒と足尾の山はいろんな色でおもしろいと荒廃した山を描いていました。どんな思いがあってこの名をつけたのか、聞いてみたい時にはいませんでした。
鈴木喜一さんは悠さんに、どんな思いで名づけたのか、うかがってもよろしいでしょうか?
2011/07/06(水) 22:59:36 | URL | 神山悠利 #-[ 編集]
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