
建築資料研究社/1994.7.1/A5版256頁
定価2500円(税込)
ISBN4-87460-424-2
【本書より/ビルマ抄】
ホテルに戻って、帰りの旅支度を整える。飛行場までのタクシー(小型のトラック)の中が風邪引きの私にはとてもつらかった。体を抱えながら脂汗を流している私を横目で見ながら、若い運転手は遠慮がちに話しかける。
「ビルマはどうだったか」
「うん」と私は苦しさを押さえて少し笑う。彼はゆっくりと話し続ける。二七歳の彼はこの間まで大学に行っていたそうだ。厳しい競争率で入った大学だが就職はそう簡単にはなかったという。彼は外人専用のタクシーの運転手として働くことになった。ラングーン市内のホテルから約三○キロメートルのミンガラドン空港を往復することが彼の仕事だ。
「学校の教師の給料は月五○○チャット。おれは空港までの一往復で一○○チャット稼ぐ。だからおれは金持ちだ。もちろん、おれなんかより大金持ちはいっぱいいるさ。だが、この国では貧しいものがほとんどだよ。……しかし、貧しいものも幸福に生きているよ」
金持ちも貧しいものも平等に生きている。つまり、貧しいものは貧しいものなりの生きていく文化があるということだろう。私は薄れている意識の中で、なにかすごいことを言っているなと思った。同じアジアでありながら極東に位置する日本、そして極西に位置するビルマの距離を思い浮かべた。物理的な距離ではなく、あまりに遠ざかってしまった生活の距離を。精神の距離を。
考えてみれば、本当に豊かな人というのは自分自身の生を極限にまで高めていった人なのかもしれない。「生」以外に富というものは存在しないといったジョン・ラスキンの言葉を、私は若い運転手から再び聴いたような気がした。経済の豊かさは、誇り高く生きていくという最も大切な豊かさとは無縁のものなのだ。ビルマの風景や人がつくっている空気に触れて私はそれを強く感じる。人間としてどうしてもしなくてはならないことが、そうあるとは思えないが、その一つに、生きていることに豊かな感情で反応するということが確かにあるだろう。
深い緑のあい間から、かすかにミンガラドン空港が見えてきた。この座席から解放されてとにかく空港のベンチで横になれる。
「苦しそうだな。大丈夫か。もう空港だよ」
「ありがとう。助かるよ」私はなんとかリユックを背負い、カメラの入ったバッグを抱えた。そして、五○チャットをわたすと彼は笑って再び聞いた。
「ビルマはどうだった」
「ああ、ビルマはとてもいい国だったよ」
飛行機は予定通り空港を飛び立った。がらあきのビルマ航空の機内で脂汗を流して横たわりながら、バンコクの夜のドン・ムアン空港へ。
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