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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2009.11.12
 人間の原風景を訪ねる☆interview●01
text by yukimi hara
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「旅しない鈴木喜一なんて何の役にも立たない」
鈴木さんは、自分のことを笑いながらそう話す。世界各地を旅して、建物に、人とその暮らしにずっと触れてきた。生活の匂いがする民家や集落をじっくり見つめ、そこから学び、そして謙虚に家をつくる。古いものを愛し、朽ちて消えてしまいそうな建物に再び命を吹き込む。心の奥に強い意思を秘め、自然のままに、思いのままに生きる、その軽やかで真摯な人生の旅をのぞいてみよう。


父親が金属屋根を葺く職人だったんです。内弟子を抱えた親方で、小さな会社をやっていて、僕は長男で跡継ぎ。小学生のときから屋根に登って手伝いをしていたんですよ。
進学するときは工業高校の機械科か建築科でなければダメだと言われ、建築科に入りました。高校では成績も良く、図面も描けて、先生も「喜一君は設計に向いている」なんて言ってくれたから、父は職人にするより可能性があると考えてくれたみたい。卒業後は跡を継がないで地元静岡の建築事務所に入ることを許されました。一言「職人をいじめるような建築家にはなるな!」と言われました。
事務所では、周りがみんな朝から晩まで仕事をするものだから、よく遅くまで図面を描いていた。でも、苦にはならなかった。ただ、若いから遊びたいですよね。それで夕方6時になると事務所を抜けて遊びに出かけ、夜9時に戻ってまた仕事をしました。当時、僕は演劇をやっていて、夜に稽古があったんですよ。
そのころ主に設計していたのは娯楽施設。総勢70人ぐらいの大きな建築事務所なので、いくつかの部署に分かれていたんです。僕のところはボーリング場ばっかり設計していました。だから、ボーリングは今でも上手い(笑)。竣工前に試し投げをしてレーンの滑り具合とかチェックしていたからね。レストランや住宅の設計も何軒かやりました。
こうしてたまたま建築の道に入り、図面を描くことも人並みにできるようになったのですが、かといって建築家になれるほどの力量と才能があるとも思えなかった。自分の能力の限界というのがわかってきて「このままじゃ、ちょっとまずいな」と考えるようになりました。22~23歳の頃ですね。それで父に「そろそろ家業を継ごうか」って言ったんです。当時、父の仕事は活気があったし、実際に手を動かしてものをつくる方がおもしろそうだと思ったことも事実なんです。でも父は「ダメだ!」「建築家になると決めたんだから、やり通せ!」と。で、すぐ引き下がっちゃった(笑)。でも、今から思うと本心は継いで欲しかったんだろうな……。
まあ、それからあれこれ考えて、武蔵野美術大学の通信教育を受けることにしたんです。専攻はデザイン。建築はそこそこわかっていたし、もう学校で勉強するほどでもないからデザインをやろうと。「この先生の授業だけは聴講してみたい」という方針も明確に持っていました。通信教育部を卒業してから通学部の方に編入して、勤めていた建築事務所を休職しました。でも、結局戻らないでなし崩し的にやめちゃった(笑)。だけどその事務所とは今でもとても仲がいいんです。
学生を終えて、大学の教務補助と助手を5年間、30歳までやりました。研究活動の他に住宅設計のアルバイトをしたり、研究室に委託された仕事をしていましたね。
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