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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2008.03.20
 春一番神楽坂対談☆鈴木喜一☆朝日マリオン21
080229_yokomizo.jpg
となりの形見-3●横溝健志写真展
(photo.takeshi yokomizo)


春一番神楽坂対談☆鈴木喜一×朝日マリオン21

この取材は2008年2月26日にアユミギュラリー及び一水寮で行われたものである。
朝日新聞誌上で本日(3月20日)公開されているのだが、これを機に、神楽坂に対する思いを少しずつ綴っていこうと考えている。

【01】「保存」という願い
◎アユミギャラリーの建物は「保存」という願いが込められたものと聞いていますが……。
●この建物(アユミギャラリー)は岳父高橋博(1902-1989)の建築事務所でした。僕がここに来てもう30年ほど経ちます。この建物 は2007年で60周年を迎えましたから、その約半分くらいを過ごしたことになりますね。
僕の考え方の方が通常だと思うんですが、スクラップ&ビルドの時代はもう終わったと思いますよ。時間を積み重ねてまちの記憶のよすがになっている建物を維持しながら環境や景観を創っていくということがもっとあたりまえにならないといけないですよね。

◎残して創るということですか。
●そうなんです。この木造の建物はどうしても残したいという高橋家の思いがありましたし、僕も同感でした。これを残して創ることを考えなければ、自分を壊すことになると思いました。

◎この辺りはほとんど空襲で焼け野原だったそうですね。
●高橋春人さんという画家が神楽坂に住んでいましてね。彼は戦災直後の神楽坂の風景を克明に描いていました。アユミギャラリーでも彼のその作品を展示したことがあるのですが、とても貴重な記録でした。そのスケッチ群によるとまさしく焼け野原、瓦礫の山のようで、坂道だけがうねっていました。そんな時代の中でいち早くこの建物、つまり高橋建築事務所は建てられた。

◎お父さんのアトリエということですね。
●父は1947年からここを拠点として仕事をしてきたわけです。やっぱり愛着があったというか……、自分が生きてきた証しともいえる建物でしたから、「残せるものなら残したい」と言っていました。ですから、父親の仕事場だったから残したいという思いが当然ありますが、もう一つ、この建物がまちにとって、ある種の小さなランドマークのようになっているということを感じていました。ビル建設の話はギャラリーを始めてから5年後ぐらいのことだったけれど、その間に、まちの人たちからこの場所が親しまれつつある、みんなに愛着をもたれている、浸透しつつある、という実感をつかんでいました。

◎先生の著書『まちと建築を再生する』(武蔵野美術大学出版局)にも「建物はまちに対して責任がある」という想いと、神楽坂の人たちの声に支えられたとありますね。
●ギャラリーを利用してくれた人はもちろん、見に来てくれたひとも「いい空間だね」と言ってくれていましたし、簡単には壊すわけにはいかない。市場経済合理主義でものを考えてはいけないですよね。それでこの建物を残すことを前提にビルの計画案を考えました。
【02】アユミギャラリーオープンまでの動き
【03】建物の保存維持という点について
【04】神楽坂の街並みの変化
【05】現在の東京
【06】神楽坂建築塾について
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