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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2010.11.13
 駒五郎の神楽坂建築塾講義01☆出自について
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森と建築

みなさんこんばんは。栗駒木材株式会社の大場隆博=煙駒五郎です。
今日ここでみなさんにお話をさせてもらえる機会をいただきありがとうございます。鈴木先生には大変感謝いたします。まず私のことを知っている方もいらっしゃると思うのですが、知らない方もいると思いますので、どのような人間かを少し話します。生まれは宮城県栗原市栗駒というところでして、栗駒山のふもとで育ちました。宮城県の北部で、ほとんど岩手県堺です。
本当に山の中で、家の後ろは国有林でして、小さいころは山の中しか遊び場がない状態でした。私が小さい頃はまだ電話がぐるぐるな感じでした。お爺さんの代は主に炭焼きが主な収入源でした。
私の父の代に営林署の季節労働者となり、その後独立し、伐採、搬出業を営み製材工場、チップ工場、建築業を営む材木屋さんになりました。そのような環境の中でしたので、小学校に入るとおやじと苗木をしょって山に植林に出かけ、休みの日や学校から帰ると山仕事か山や川で遊ぶ毎日でした。その後ダムの立ち退きで生まれ育った山の中から少し集落のある地域にきました。集落のある地域と言っても中学へはスクールバス、高校は片道、自転車で21キロの道のりでした。
大学は東京農業大学農学部林学科を何とか卒業しました。東京に就職しようと思いましたが、父親が脳梗塞で倒れ急遽帰ってきました。卒業後、すぐに山に入り伐採作業から仕事を始めました。伐採作業を一通りこなすようになると、今度は大型トラックに乗り山から丸太を積んで工場へ運ぶ作業をしました。工場では「しょっこう」といいまして、送材車という丸太を製材する機械で一通り、丸太の引き方を覚えました。建築現場では主に基礎工事を担当してまして、鉄筋切りやネコで型枠の中にコンクリートを入れる肉体労働が主でした。父親が会社に復帰し、私自身仕事を一通り仕事を覚えると会社を辞め地元の製材会社8社で作った組合に入社しました。父は初代の理事長でした。そこでは、安い外材に打ち勝つため、国産材を大量生産し関東へ出荷することが主な仕事でした。取引先は商社や市場、問屋などでした。補助金を使い最新鋭の製材機で大量生産すれば安い外材に打ち勝てると当時はだれもが安易に考えていました。バブルが崩壊し材木の値段が、一層値下がりし、挽けども挽けども赤字が続きました。..............続く


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