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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
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2010.02.06
 すべてを大地の近くに保ち
『フランク・ロイド・ライトの現代建築講義』(白水社)
プリンストン大学の6つの連続講座

すべてを大地の近くに保ち

つい、うっかりこの本の書評を引き受けてしまった。
理由は、久しぶりにフランク・ロイド・ライトの講義を受けてみるのもいいだろう。世俗にまみれてついつい濁りがちな精神が澄んでくるかもしれないという邪心だった。かつて読んだ『ライトの都市論』『ライトの住宅』『現代建築の巨匠』といった昭和40年代に刊行された本を書棚から引っ張りだして、まだ東京都千代田区内幸町に存在していたライトの『帝国ホテル』を見学にいった僕のハイティーンの頃を思い出していた。
そうこうしているうちに、某編集部から本が届いた。各章を繰ってみて、どこから読んでみようかと作戦を立てるのだが、片手間に、とはいかない。しかもライトの建築の存在は僕の中で遠い彼方に置き忘れられている。
そこでまず、編集部にこう伝える。
「この本は、書評という観点ではなく、傍らにおいて、じっくり噛み砕くように読み進めなければならない本ですね。ライトのアメリカの実作に直接に触れて親しんでから読むべきものかもしれません。ライトの人生を行きつ戻りつしながら、そして僕自身の生をもそこに浮かべて、1930年のプリンストン大学に旅立てればいいんですが」と。
ひとまず肩の荷が降りたのか、訳者の山形浩生氏のあとがきを再読する。巻末の7ページだが、この文章はとてもすっきりしていて一縷の救いがある。本書のまとめ方も手際よい。それぞれの章を一、二行でまとめているのだが、その中で興味を惹いたのは第六章である。「ル・コルビジェの輝く都市のようなモダニズム高層ビルは人間を型にはめて非人間的」(後略)
僕はライトの「都市」の講義を受けることにする。まちに不似合いな高層ビルの新築がいまだに相次いで出現しようとしている我が神楽坂のまちを重ね、その憂いる心を持って。
ライトは一極集中大都市主義の限界を1930年に、もしくはそれ以前にいち早く見抜いていた。批判の的先は、20世紀の建築思潮を大きく誘導したル・コルビュジェにあてられた。
「大地のこどもたちよ、おまえたちが生来の権利を尊重し、それを人間的な活動によって十分に元祝(ことほ)がない限り、おまえたちは切り倒され、闇の中で消え失せるか、高い塔に押し上げられる----最後の神への生け贄になるのだ。したがって子供たちに恥ずかしくないようにせよ。すべてを大地の近くに保ち、大地に足をつけ、手は地の豊かさに従事させて、視野を広げすぎず、高めすぎぬようにするがよい」
------教えが守られなかったバビロニアの予言者の発言とされる。

ライトは、予言者の発言を引用して、そして自ら語り始める。時は世界大恐慌(world crisis)のさなかである。
「------機械の我々への贈り物は、いまのところ、古い活動を強化しただけです」
機械という言葉を、高度文明社会つまり、この稿を書いている現在という言葉に置き換えてもいいかもしれない。
訳者の山形氏は、この本から「細かい記述から読み取るべき教えがあるかもしれない」とし、続けて「だがその価値は限られているといわざるを得ない」としている。僕なりに解釈すれば、個々に読み取った教えの価値がどのように発揮されるかは、読者の想像力にゆだねられているということになるだろう。さらに、彼はこの本の位置づけとして、「モダニズムを徹底して見直してみたことが、」と続けている。
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