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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2009.10.04
 武蔵美近代文明論☆08●合理化の中で失ってしまったもの
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『大地の家』

●合理化の中で失ってしまったもの
今日はタイでもなく、ビルマでもなく、ネパールの話をする日だった。
来月、ある仕事でね、久しぶりにネパールに行くんです。半月ぐらい。それまでに体を治さなくてはならない。たぶん、治らなくても行くだろうって思っていますが、そうしたらカトマンズあたりの病院で、カトマンズじゃなくてもとある村の診療所でもいいんですが寝ていようかな。
実はちょっとトレッキングっていうか、ヒマラヤの山道の散歩が含まれているんです。トレッキングはおそらくいまの僕にはきついだろうから、どうしようかな、ジープで先回りしようかな、ジープはないだろうから馬かロバか、あるいは篭はないかなあとか、いろいろ作戦を考えている。
ネパールはとてものんびりできるところなんですよ。そういう意味では、先程から話をしているけど、時間がゆったり流れている。空気のようにに流れている。だから体にもきっといいだろうって思ったりしている。
1983年にネパールに行った時に僕が感じたことっていうのは、『大地の家』という本に書いてあるんですけどれね。君らが生まれたのが昭和何年ぐらい?
「昭和47年」
昭和40年代っていうのは日本で言えばちょうど高度成長期という時代だった。たぶん、君らが生まれた時代、もう一世代前も含めて、日本は猛烈な勢いで何もかも変わっていった。結論的に言うとね。その変わる前の豊かさがネパールにはあった、ということなんですが……。
その変わっていった日本のテーマというのは何だったのか。一言で言ったら、《脱出》だったのね。何からの脱出だったか、っていうと、一つには「過去から」、二つ目には「大家族から」、家族がだんだん分解していく、小さくなっていく。もっともっといろんなことが変わっていったかもしれない。
さっきのゴールデン・ウィークの島でもね、実はほとんど年寄りしかいない。いくつかの小島を、転々としたんだけれど、立派な大きな家かあるけれど、空き家だなという家が多い。ここは空き家だと思って、失礼して入っていくと、どうも住んでいるような気配もする。結局、大きな家なんだけれど、老人が二人で住んでいたり、片方亡くなられて一人でおばあちゃんだけが住んでいたりする。
結局、島にいたのでは経済的に成り立たないから、若い人は都会に行ってしまう。だけど、年寄りは島を捨てて、家を捨てて、都会の生活に入っていくのはほとんど無理なのね、体が無理。無理なはずだよ。ものすごくいいところなんだ。海があって、空気がよくて、派出所なんかなくてさ、その島の車見たら、ほとんどナンバープレートがない。ナンバープレートがあるのは他所の車だな。ナンバープレートがない、つまり廃車が島を走っている。警察がいないから免許証も要らないのかな ? 交通違反もない ? 酔っ払い運転は ? まあ、このあたりのことはややこしくなるから考えるのをやめておこう。
ともかく不法地帯。問題は起きないのかなあって土地の人に聞いてみると、
「問題ないですよ、わかるでしょ」って言うから、
「うん、わかります」と答える。
なぜなら、その人たちの顔を見ているとね、みんないい表情なんだ。犯罪なんか起きるわけがない。島の生活は良いですよ。
でも現実は、村の大きな衰退の流れはせき止められない。どうにもならない、人間の価値観、人間の文化に対するものの見方が変わらない限り、救えない。島を観光開発して活性化して観光客を呼ぼう、その手もあるだろう。あるけれども、そういうのを、いくらうまくやっても、島が壊れるだけでしょう。人間も景観も。だからだめなのね。まあしょうがないか、と言って苦笑いするのが今の僕なんだけれど。
でも、そういうの大事なんだよ。困ったなあって言って、一回みんなで、そういう現象をちょっと笑ってみる。
だからたぶんこの中でもこれから卒業論文とか、いろんなテーマを設定しようとしている人が多いと思うんだけれど、ぜひ、こういう場所に行ってね、君ら、生活デザイン学科の学生なんだから、人間の生活、自分の生活って何だろうってことをじっくり腰を据えて、考えてみる。その辺からしか、もう突破口が見当たらない。人間の本当の豊かさって何だろう、人間の本当の快適さって何なんだろう。その本質を押さえてほしい。単純にデザインとかリサーチとかそんなんじゃないよって僕は思う。またまた脱線していますね。
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