FC2ブログ
旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2008.09.13
 ジュースと銭湯
20080913140223.jpg
20080913134338.jpg


ジュースと銭湯(悠くんを偲んで)●鈴木和宏

今から15年くらい前になるだろうか。私は神楽坂の路地裏に建つ一水寮という古びた木造アパートに部屋を借りていた。土間で靴を脱ぎ、勾配のややきつい階段を上ってすぐのところが私の部屋だった。広さは三畳、雨戸はなかったが清潔感があり、ごろっと仰向けになって天井を眺めていると、不思議と狭さを感じなかった。雨の日が特に好きだった。トイレや流しは共用、風呂は近くの銭湯を利用した。一番近い銭湯は見晴らし湯といったが、部屋を借りて数カ月で閉じてしまった。神楽坂には他にも銭湯があると聞いていたが、どこにあるのかは知らなかった。
夏の夕暮れ時のこと、適当に歩いて別の銭湯を探してみようと洗面器を抱えてアパートを出たところで、大家さんの長男悠くんとばったり出会った。当時小3くらいだっただろうか、くりっとした目が印象的で、姉の歩ちゃんと仲良く遊んでいる姿を界隈でよく目にしていた。「ジュース買ってあげるから銭湯まで連れてってくれないかなあ」と私が切り出すと、こくっと頷いてすぐに歩き出した。慌てて私も後を追う。ほどなく路地を抜け、神楽坂の表通りに出たところで、急に手元が軽くなった。悠くんが私の洗面器を持ってくれたのだ。会社帰りのサラリーマンなどで賑わう神楽坂の通りの真ん中を、洗面器をもった悠くんと私はぐんぐん下っていった。なぜか、ちょっと誇らしい気分を楽しんでいた。やがて交差点を曲り、しばらく進むと第三玉の湯と描かれた看板が見えてきた。銭湯の前に置かれた自動販売機にコインを入れ、約束通り好きなジュースを選んでもらった。「ありがとう」と私が言うと、ジュース片手に悠くんは微笑んだ。銭湯ののれんをくぐったところで、振り返ってみると、もうそこに悠くんの姿は見えなくなっていた。