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旅する建築家
鈴木喜一の

大地の家
2007.10.17
 日本辺境ふーらり紀行☆1
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夏のある日の夕暮れ、日中の酷暑も薄らいで欅の木の下を流れる風が気持良かった。僕はアユミギャラリーの庭でビールを飲みながら、池の金魚たちと戯れていた。
そこに二人の女性がニコニコとやってきた。
「キイチ先生の辺境を書いた文章が好きなんです」
「へえー」
「辺境に見るものはそこはかとない暮しなんでしょうか」
「まあね」
「人間が物質文明を追い求めているので日本中の辺境がなくなっちゃうってことで、人間の生き方にもかかわる問題なのかしら?」
「そうなんだよね。建築の仕事をしていても、辺境化できる仕事はおもしろい。極端な話、たとえば電気はいらない、ガスもいらない、水も少しあればいい、土間でいい、自然光で十分、新聞もいらない、テレビもいらない」
「つまり、便利さや快適さに惑わされないで、自然というものを大切にしてどこまで本物とつきあっていけるかってことですか」
「そうそう。文明の利器を過剰に持ってきたら、やっぱり人間としての強度がどんどん失われていく」
ビールがどんどん進み、話も飛躍的にどんどん弾む。
「よーし、ひとつおもしろい連載でもやりますか」
「やりましょう、やりましょう(拍手)。タイトルは日本辺境ふーらり紀行ってとこでしょうか」
「今度、弘前に行くんだけど、試しにみんなで津軽辺境を一回りしませんか」
しかし、ここでしばし沈黙が続く……。「いーや、ひとりぼっちで津軽半島に行ってもらいましょう」と言っているような冷静な眼差しである。彼女たはチルチンびと編集部の人なのであった。
かくして、新連載の「日本辺境ふーらり紀行」が始まることになった。
国語辞典でまず、ふらりを調べてみる。
☆ふらり: 特に目的もなく、急に思い立って出かけたりするさま。ふらっと。
次に、ふーらりを調べてみるが、見あたらない。そこで、
☆ふーらり: ほとんど目的もなく、気軽に思い立って風のように旅をするさま。
と定義してみる。
日本辺境をこれといった目的もなく、寝袋持参でのんびりと風にのって旅をするのも悪くない。辺境を出たとこ勝負で歩いてゆけば、いつか知らぬ間に国境を越えているかも知れない。そこで世界に迷っている感覚も得られるだろう。

ひとりぼっちで津軽半島の海に向かった

とにかく日本の余裕的辺境紀行へ、ふーらりと一歩を踏み出すことになった。
だが、弘前に向うのには理由があった。「近代建築史への旅スケッチ展」という展覧会が青森銀行記念館(第五十九銀行・国指定重要文化財)で開催されることになり、僕はその企画展の責任者として、しばらく津軽界隈に滞在することが最も自然なことだったのである。
暑い夏をやり過ごすには、津軽でふーらり避暑三昧というのもいいかもしれない、と思ったのは甘かった。品川発のノクターン号に乗って一晩過ごしたまでは良かったが、到着した弘前はうだるような猛暑の出迎えだった。
バスターミナル近くの市場で朝食をとることにする。おいしいごはん(120円)とイカの刺身(200円)を平らげて気を取り直し、弘前のまちをてくてくと歩き始めた。

●川口染物店ガンバレ 
弘前昇天教会(明治29年/J・McD・ガーディナー)から坂を下る。中央弘前駅を左に見て、とことこ歩いて北川端町14。
いったい誰がつくったのか、インパクトのある川口染工場の看板、洋風の上げ下げ窓、腰壁には緑のタイル、すーっと立ち去るわけにもいかず、酷暑の中だが、スケッチブックを広げる。
しばらくすると、雲行きが妖しくなり、みるみる豪雨となった。やれやれ、と思っていると家の中から、大きな傘を持って女性が現われた。
「がんばって描いて下さい。私もこの角度から描いたのですが、なかなか難しいですよね」
黒い板塀には絵画教室の表示がある。どうやら、この家に住んでいて、子供たちに絵を教えている女性らしい。描きながら彼女の話にしばし耳を傾ける。
「我が家は明治時代から四代続く染物屋で、この建物は二代目が大正時代に建てたものなの。ハイカラな人でこの辺にはない家にしたくて、がんばっちゃったのよ。
15年前に主あるじが亡くなって、今は煙突から煙が立つこともないけれど、工場も住居部分もそのまま残してあるの。つくづく古いなあと思うけれど、味があってね、大切にしようと思っています。朝四時半と六時半に昇天教会の鐘が鳴るの。最初の鐘で目が覚めて、次の鐘で朝食の準備にとりかかるの」
鐘の音か、こんないい話を聞いたからには、雨ニモマケズ、風ニモマケズ、ヒロサキノ今年ノ暑サニモマケズ、スケッチに励まなければならない。
描き終えて、内部を隅々まで見せていただいた。川口染物店は確かに魅力的な迷路のような空間であった。

●大工棟梁堀江佐吉  
弘前といえば、弘前城である。仲町の武家屋敷でもある。さらに西洋館の大工棟梁として明治期に活躍した堀江佐吉(1845~1907)の残した建築も忘れることができない。
まず我々の展覧会が開かれている青森銀行記念館(明治37年)がその代表的な建築だが、弘前市立図書館(明治39年)、日本キリスト教団弘前教会(明治40年)、弘前偕行社(明治37年)、津島源右衛門邸(斜陽館、太宰治の生家/明治40年)などが堀江佐吉の主な仕事である。
初仕事は16歳。父、伊兵衛のもとで専徳寺外陣欄間の竜の彫刻であった。21歳、妻さたと結婚。次々に10人の子供をもうけ、仕事の方も身を粉にして奮闘していく。若くして棟梁を見込まれ、同業者や職人の信望も厚いものだった。
佐吉の生涯にとって決定的だったのは、明治12年、34歳の時である。初めて津軽海峡を渡り、函館に向かった。北海道開拓使が行う工事に従事するためである。その函館は外国も同然、異国情緒があふれる西洋館が立ち並んでいるところだった。アメリカ、ロシア、イギリス、オランダ、フランスなどの領事館があり、横浜、長崎とともに海外文化がどっと流れ込んでいた。港町としての活気もあわせもった函館は、佐吉にとって宝の山だった。とくに築島の外人居留地にある西洋館に心を奪われる。ロシア主教ニコライが建てたハリストス正教会にはただ驚くばかりだった。仕事のかたわら、西洋館を丹念に見て回り、スケッチを描き、工事関係者を訪ねて設計図の写しをもらい、苦心談を詳しく聞いている。約1年間の函館滞在は、佐吉にとって貴重な西洋館研究の日々であったといえる。
その佐吉の気性は、技量非凡、性豪胆、無欲恬淡、率先陣頭、義侠心に富み、統率と包容力の妙、といった言葉で伝えられている。
数百の部下を指導しながら家には旦夕の貯えなく、といって信用を失うことなもく、田舎職人の風采で仕事に没頭するのである。弟子、兄弟を大切にし、息子たちにも大成を期して熱心に仕事を仕込んでいる。明治40年8月19日、佐吉は家族や大勢の弟子たちに見守られながら、やすらかに永眠しているのだが、佐吉は生前、家族に常々こう語っていたそうだ。
「われほどしあわせな者は、世の中にそうあるまい。いつ死んでも少しも残り惜しくない」


●黒石の「こみせ」 
「こみせ」を描いている間、風鈴の音が絶えず聞こえていた。
黒石市中町地区は藩政時代に考案されたの「こみせ」がまとまった形で残っていることで知られる。「こみせ」とは、通りに面した木造のアーケードである。雁木とも呼ぶ。歩行者は冬の吹雪や夏の日照りなどをさけながら、通勤や通学がてらに買物もできる。
黒石市は明暦二年(1656年)に黒石藩祖信英公が津軽藩から分知されて以来、330年余にわたり城下町として栄えた。とくに青森方面へ通ずる街道の要衝であった中町は造り酒屋や呉服屋などが軒を並べ、前町、横町とともに商店街の中核をなしていた。
「ここは冬の時に人が安全に歩ける場所なんだ。車の心配がないしね。通学路にもなっていたから、よく歩いていたんだが、ここに入るとどこかほっとしたね。道路にはうず高く雪が積もっていた。リヤカーを引っ張ったり、馬そりを引っ張っている風景もあったんだ」と初老の男が昔を懐かしむように教えてくれる。


●客舎という湯治場の宿  
黒石からバスで約15分、温湯ぬるゆの湯治場がある。ここでは宿舎のことを頑なに客舎と呼んでいる。例えば、盛萬客舎、飯塚客舎、後藤客舎、土岐客舎等……。
客舎は旅館とも民宿ともちがう。本来、部屋だけを提供し、炊事洗濯はむろん自前、夜具等も湯治客が持参してくる施設なのである(今は布団も貸してくれる)。
僕は盛萬客舎に宿泊していたのだが、この居心地が満点なのである。標高がやや高いせいか、ここは避暑地の気候である。風が森の匂いを運んでくる。しばらく、土地の中に入り込んで、ずっと夢の中にいよう。今日は落雷で弘南電鉄の電車がとまっているらしい。
共同温泉浴場に入っては、カランコロンカランコロンと下駄を鳴らして散歩する。路地で「かわいいかわいい魚屋さん♪♪♪」というテープを流しながらやってくる軽トラックのお兄さんに出会ったりする。集まってきたみんなと一緒に魚を見ていると、お腹がすいてくる。渋い大衆食堂の暖簾を潜り渋い定食を食べながらビールを飲むと、また眠たくなってくる。
ふーらり紀行は急ぐ旅でもないので、ついついこんな感じで四連泊となってしまった。
ところで客舎は素泊り、なんと2000円(冬は2500円)。食事は丁寧にお願いすれば出してくれる。一泊二食付き5000円(これが素晴らしい内容)。


●ここは本州の袋小路だ  
陸奥湾を右手に見て津軽半島の突端、竜飛崎に向かう。津軽線で蓬田、蟹田と徐々にさかのぼると三厩みんまやが終着駅だった。すでに夕暮れである。三厩村字新町の民宿に飛び込む。「夕食が少し遅れますが、それでいいですか」と上品な奥さん。
この民宿は漁師の家らしい。『第五昇進丸』という釣船の写真が壁に掲げられている。夜は激しい雨となった。これでこの夏の暑さも少しは遠ざかるかもしれない。
翌朝、三厩からバスで30分、竜飛崎に着いた。曇り空。静か……、かもめが鳴いている。大宰治(1909~1948)の石碑が風に吹かれている。刻まれた文章をノートに写しとってみたりする。
「ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌めいきせよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ケ濱街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」(津軽より)
なるほど袋小路か、路は全く尽きたのか、と言いながら、僕は小泊に向けて山道をてくてく歩き始めた。途中、トラックの運転手に拾われた。東京で8年暮らしたことのある目の澄んだ男だった。
「この道には熊が出る。冬は通行止めになる厳しい道だ。ここではゆっくり時間が流れている」
ようやく山道を越えた。すると紺碧に輝く日本海が見えた。その海岸線沿いを辿るともう小泊だった。
小泊の漁港にはイカがいっぱい吊るされていた。「焼イカはどーですか。小泊の新鮮なイカだよ」とおばちゃん達が陽気に声をかけてくる。200円だが、貧乏人に見えたのか150円にしてくれた。
居酒屋に入ってみる。男たちの喋る津軽弁がさっぱりわからない。ここはアジアのとある港町のようだ。「ヨグキテケシタ」と言ってジャッパ汁(ソイのスープ)を出してくれる。

●真の好風景    
翌朝、小泊港でイカソーメンとごはんで朝食をとってから、今泉へ向かった。やまなみバスに飛び乗ったら、また蟹田の海に出てしまった。十三湖を見逃してしまったと思い、再びやまなみバスに乗って、湖の名物、蜆汁を食べに行く。橋のたもとで見た夕陽がきれいだった。
嘉永5年、北方海岸の防備調査の為、当地を訪れた吉田松蔭は十三湖から見た景観を「真の好風景」と日記に書きとめた。そうだったろうなあ、と僕は思う。静かな時代だっ
たにちがいない。あの橋は昔、木の橋だったという。
翌朝、民宿のおじさんに市浦の相内まで送ってもらった。そこから弘南バスで中里駅まで来た。今日も暑い。
中里から津軽電鉄に乗って金木、五所川原へと向かう。風鈴列車(冬はストーブ列車となる)に乗りながら、一句歌ってみる。
風鈴が ささやいている 青い空
その空には岩木山(1625メートル)が見える。雲をかぶった優雅な津軽富士である。
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